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世界で初めてとなる写真、少なくとも現存する最古の写真は、1826年または1827年にジョゼフ・ニセフォール・ニエプスが撮影したものです。
つまり、人類の壮大な歴史のうち、人や出来事を撮影できたのはほんの数百年間でしかなく、歴史上の有名な人物らが実際にどんな姿をしていたのかについてはまったく分かっていません。今回はこのカメラ技術が発明されて以降、写真に残っている有名人をご紹介しましょう!
ジョン・クィンジー・アダムズは、アメリカ合衆国第2代大統領ジョン・アダムズの長男として1767年7月11日に生まれ、弁護士としてキャリアをスタートさせ、後に外交官として各国に赴き、上下両院で議員を務めました。1825年、民主共和党から第6代大統領に選ばれましたが、後の1830年代にはホイッグ党に所属しています。
チャールズ・ダーウィンは歴史上最も有名な博物学者の一人で、あらゆる種が共通の祖先から長い時間をかけて進化したと最初に唱えた人の一人です。ダーウィンは、進化に関する発見を1859年の著書「種の起源」で発表しました。当時、この進化論は他の科学者や宗教団体から広く批判的に受け取られましたが、今日では自然淘汰の結果として進化が起こったというダーウィンの仮説は、現代科学の基盤となっています。
独立戦争以前、アンドリュー・ジャクソンは辺境地の弁護士を務めた後、上下両院で議員を務め、テネシー州最高裁判所の裁判官に選出されました。また、ジャクソンはクリーク戦争や第二次独立戦争、第一次セミノール戦争で兵を率いた指揮官としても有名でした。1824年、大統領選に出馬しましたが、ジョン・クィンジー・アダムズに敗れています。ジャクソンは民主党を結成し1828年に再び大統領選に出馬すると、宿敵アダムズを打ち破って第7代大統領となりました。
アーサー・ウェルズリーは19世紀のイギリスにおける軍人でもあり、政治家でもありました。イギリス系アイルランド人の軍人として、2度にわたって首相を務め、ワーテルローの戦いではナポレオンを破ったことで知られています。優位と思われていた敵軍を前に、自軍の損失を最小限にとどめながら何度も勝利をおさめたウェルズリーは、歴史上、最も優れたイギリスの戦術家の一人として知られています。ナポレオンとの戦いに勝利したことで国民的英雄となり、1814年、初代ウェリントン公爵に叙されました。
フィンセント・ファン・ゴッホは、わずか10年間で2,000点以上の作品を完成させたことで知られる19世紀のオランダの後期印象派の画家です。近代美術の先駆者の一人とされていますが、生前にはあまり注目されていませんでした。しかしその死後、西洋美術史上最大の影響力のある画家として知られるようになりました。不幸にも、フィンセント・ファン・ゴッホは1890年に自殺するまで、精神病エピソードや妄想に悩まされていました。
フレデリック・ダグラスは19世紀の政治指導者で、奴隷廃止論を唱えた革命家でもありました。メリーランド州の奴隷制度からなんとか逃げ出した後、マサチューセッツ州とニューヨーク州において、奴隷廃止運動のリーダーとなりました。当時、アフリカ系アメリカ人は自立したアメリカ市民になる能力が欠けていると考えられていましたが、これに真っ向から反対し、多くの北部出身者はかつては奴隷だった(つまり教養などあるはずもないと思われていた)ダグラスの知性と影響力に驚いたと言われています。晩年、本人には知らされていませんでしたが、アフリカ系アメリカ人として初めてアメリカ合衆国の副大統領に指名されました。
マーティン・ヴァン・ビューレンは、民主党の主要な設立者の一人だと考えられています。政治家としては、ニューヨーク州知事、第10代国務長官、第8代アメリカ合衆国大統領を歴任しました。アンドリュー・ジャクソンの支持を受け、マーティン・ヴァン・ビューレンは1836年の大統領選挙で勝利しましたが、1840年の再選ではウィリアム・ヘンリー・ハリソンに敗退、さらに1848年、自由土地党から大統領候補として出馬しましたが、得票数第三位で落選しています。
ハリエット・ビーチャー・ストウは奴隷廃止論者で『アンクル・トムの小屋』の作者としても知られています。この作品は、アメリカにおける奴隷の過酷な扱いを浮き彫りにし、国際的にも評価を得ていますが、当時は特に北部の人々に奴隷制度廃止を呼びかけるために使われました。ストウは生涯で30冊の著書を残していますが、その多くは当時の社会問題とそれに対する彼女の姿勢をよく表しています。今日、ストウの作品の影響力は大きいと評価されています。
アニー・オークレイとして知られる本名フィービー・アン・モーゼズは射撃の名手で、バッファロー・ビルのワイルド・ウェスト・ショーに出演し、センセーションを巻き起こしました。オークレイは貧する家族を狩猟することで養うため、幼い頃から銃の腕を磨いていました。15歳のとき射撃コンテストで優勝し、1885年バッファロー・ビルのショーに参加して世間の注目を集めました。ショーの出演者ではバッファロー・ビルに次いで最も高い収入を稼いでいました。
秘密結社「地下鉄道」と密に繋がっていたハリエット・タブマンは、奴隷として生まれましたが、後に逃亡し、他の奴隷を自由にする活動を熱心に行いました。
今では「地下鉄道」と呼ばれる奴隷解放運動主義者らからなる組織の助けを借りて、70人以上の奴隷を助けるべく、自ら13回に及ぶ任務を行いました。さらに南北戦争が勃発すると、タブマンは北軍のためにスパイや斥候を務め、自由のために戦い続けました。
レフ・ニコラエヴィチ・トルストイは、英語ではレオ・トルストイとして知られていますが、19世紀から20世紀初頭にかけて活躍したロシアの文豪です。若いころから作家として成功し、歴史上最も偉大な人物の一人とみなされています。1902年~1906年の間、1901年と1902年に、ノーベル文学賞にノミネートされ、1909年にはノーベル平和賞にノミネートされています。代表作に、『アンナ・カレーニナ』、『戦争と平和』、『イワン・イリイリの死』などがあります。
アンクル・サムは1812年の戦争中に、アメリカ政府と文化の象徴として初めて使われました。一般的にキャラクターのアンクル・サムは、シルクハットをかぶった白髪の男性で、白いあごひげをたくわえ、星条旗などを意匠化した服装をしています。1812年の年の戦争で、食肉業を営んでいたサミュエル・ウィルソンという人物がモデルとなったという説もあります。軍に提供した肉の樽にはアメリカを意味する「U.S.」と刻印されていましたが、これを「アンクル・サム(Uncle Sam)」の略だと冗談を言う人もいたようです。
ブッチ・キャシディことロバート・ルロイ・パーカーは、西部開拓時代の悪名高い列車強盗でした。強盗団「ワイルド・バンチ」を結成して犯罪行為を繰り返しましたが、後にパートナーの「サンダンス・キッド」ことアロンゾ・ロンガボーや、エッタ・プレースと共に国外に逃亡することとなりました。キャシディとサンダンス・キッドは1908年にボリビア軍との銃撃戦で殺害されたと考えられています。今日では、キャシディは西部開拓時代の象徴だとみなされています。
ウィルバーとオーヴィル・ライトの2人は、オハイオ州デイトンに構えた店舗でさまざまな機器に触れ、メカニックとしての経験を積みました。その後、兄弟は初めて動力飛行機の設計、製造に成功しています。1903年12月17日、ノースカロライナ州キティホークにてライトフライヤー号で初めて有人動力飛行が成功しました。人間を空中に送り出すことに成功したばかりか、ライト兄弟は固定翼の動力飛行を可能にした航空機制御を発明したことでも知られています。
ヘレン・ケラーはわずか1歳半で、病気のために視力と聴力を失いました。子どもの頃に教師であり、生涯の友人となるアン・サリバンと出会います。サリバンはヘレン・ケラーに読み書きと、言葉を使った意思疎通することを教えました。20歳で、ラドクリフ・カレッジ(現:ハーバード大学)に入学し、学士号を取得した初めての盲ろう者となりました。14冊の著書に加えて、数え切れないほどのスピーチやエッセイを執筆したほか、女性の権利や労働者の権利、障害者の権利について熱心に活動を行いました。
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